
先日、佐渡 裕のコンサートをテレビで見て、驚いた。
そこでは通常見られるように、“演奏をして観客がそれを聞く”というだけのものではなかった。
オーケストラの各奏者をピックアップして、曲の中で彼等がその微細な演奏でありながら、多大な効果を生み出している事柄を聴衆に説明したり、 ソロのトランペッターと 共演したり、そしてついには会場の全観客を演奏そのものに参加させる、というとんでもない事をしていたのだった。
奏者も観客も、その真剣な眼差しが歓喜溢れる表情に変わっていく姿が映し出されていた。とても楽しそうだった。誰でも何かを始める時に抱いている“楽しみたい”という思いを身を持って感じているようだった。
今、周りを見渡した時 僕はいつも疑問が湧いてくる。
皆 あまり楽しんでいるように見えないのだ。
僕の眼から見ると、多くの人がまるで他人に合わせるかのように、同じ方向を向いているみたいに感じられるのだ。有り余る欲求を追いかけ、その多くが数量的な満足感に支配されていて、新しく何かが登場する度に、それをまず手に入れようとしているみたいだ。その上で、まだ満ち足りていないという声を聞く。
僕には、それが個々のライフスタイルから来る思考や行動のように思えないのだ。
ものを手に入れたり、なにか行動したりするのは、それによって愉しみを得るためではなかったのだろうか?
建築の設計をしていると、いつもビックリするのだが、クライアントから自分のつくり上げたい住居の姿が見えてこないのだ。よく聞いてみても、自分が大切にしたいライフスタイルに沿った考え方での要望が出されていることは殆どない。自分の考えつく限りの内容を、いかに多く盛り込めるか、といった事ばかりに視点が向いた話になるのだ。しかも、明確な理由も特に無く、一貫したポリシーがあるわけでもなかったりする。
自分が大切にしたいライフスタイルが見えていないのだと思う。

もっと自分の心の中の言葉にじっくりと耳を傾けては、と思うのだけれど。それぞれが自分自身のライフスタイルを探し・磨き上げ・求めていけば、その内容は非常に深く・濃く・充実したモノになり、それを楽しみ尽くす事ができると思うのだが。
そして、自分の常識内だけに留まろうとせず、意外性を楽しみ、受け入れる事が出来れば、世界はもっと違ったものに見えてくるだろう。
空間がつくり出す魅力に価値を見出してもらいたい。
(確かに我慢をしないといけない事も出てくるのだけど。)